キョロ充、教員志望、虚無

教員を目指すある文学徒の日記です

自己紹介

僕は教員を目指している某国立大学の三年生です。

 

中学・高校の国語の教員を目指していますが、その他に中学社会・高校公民の教職までは取りきる予定です。もしかしたら高校地歴まで取るかもしれません。

 

複数の教員免許の取得を目指していると話すと、複数科目に渡る教員免許は、持つ必要がないとか、専門性が欠けるとかの批判をされることが多いですが、僕自身、その点については理解しています。何も考えずにただ沢山取っているのではありません。

 

僕が行いたいのは、複数科目間に渡る教育です。例えば僕は古典文学を専門に大学で学んでいますが、古典を読むのに歴史を知らないで内容が正確に分かるのでしょうか?歴史を知るのに文化や当時の人の思想を知らないでその過程が分かるのでしょうか?文化や思想を知るには文学が付き物です。

 

これは日本史と古文の親和性についての例ですが、そのように全てを通して学ぶことで何か意義が得られるのではないかと考えています。

 

古典文学を見て、日本史を学び、かつ、英語などで外国の文学に触れて、その国の歴史を学び…というように、1つの国の文学と歴史の比較だけでなく、高次的には複数の国の文学・歴史を比較することで、ようやく分かるものがあるのではないかと考えています。

 

さらにはそこに使用言語の比較や地域による風土の比較などなど、それらを複合させて初めて正しいものの見方が出来るようになると僕は考えています。

 

僕が大学で授業を受けている先生の中で尊敬している先生は、中国哲学の専門でありながら欧米の諸言語や宗教にも深い知識を持っており、僕自身もそうでありたいと考えています。

 

偉そうなことを言っていますが、そうした考えから、文学・歴史・地理・思想など、多方面に手を伸ばした結果、今は全てが中途半端に終わってしまっている状況にあります。

 

実はこんな風に僕は理想と現実とのギャップに日々悩まされています。そうした悩みだとか考えをここではつらつらと連ねていこうと思っています。

 

大学生活以外の点では、僕はアルバイトで塾講師をしています。

そこでは主に中学生・高校生の文系科目を担当しています。生徒・塾長の要望によっては高校数学などを教えることもあります。

今までに2回受験生を見送ってきましたが、そこで学んだのは、分からない人に歩み寄ることと、分からないことを受容することです。

教員を目指す人は多くが自分の得意科目を教えるので、分からない人の気持ちに立つのが難しいようです。苦手な科目を教えるべきであるとは思っていませんが、教員たる人は得意な自分と、そうでない他者とのギャップを埋めることが最重要課題であると考えています。

 

分からない人の気持ちがわからない 

とか

これだけ説明しても出来ないのか

とか

そうした言葉から

「もうどうしようもない、お手上げ」

という結論を導くことが嫌いです。

生徒が「分かる」ようになるまで、根気強く教える授業がしたいと考えています。

 

先ほどの複数科目間に渡る教育でも、塾講師のアルバイトの話でも「わかる」という言葉を使いました。

 

数学を例に出すと、公式がなぜ成り立つのかの説明があると、ストンと理解出来るようになると思うのですが、特に文系科目では、そうした、なぜそうなったのか、という部分が空白になりがちな気がします。

そうした空白をなくす為には、やはり科目を超えた教育をする必要があるのではないでしょうか。

 

僕の生活の多くが大学生活とアルバイトで占められているので、僕のことについてはよく分かっていただけたかと思いますので、自己紹介は以上とさせていただきます。ありがとうございました。