キョロ充、教員志望、虚無

教員を目指すある文学徒の日記です

7/1のまとめ

毎回日付が変わってからの更新なので、ちょっと見にくいかもしれないな、と思いつつ、誰かの為に書いている訳ではないので対処もしない。

 

今日は

経済地域論

読書と豊かな人間性

の試験があった。

両方とも論述形式で、腕が辛かった。

試験の出来は、まぁまぁ、といったところ。

単位の回収は出来てるんじゃないかと思うけど…。

 

話は変わって、

アルバイト先の塾の塾長に連絡をしてしまった。

内容は、講師の発言にマイナスなものや生徒を馬鹿にしたものが多いということ。

生徒がいない時だけではなく、生徒に面と向かって「クソ」とか言う塾長に腹が立ちすぎてのことだった。

 

よく、「〇〇は目一杯貶そうな」ということを言ってくる塾長だが、その意味が自分には分からない。毎回貶されるような人が塾に来たがるだろうか。

まず、楽しく塾に通えることを目指すには、そうした発言をしないことだと思う。

面と向かって言っていない人でも、普段から貶していると、ふとした拍子にそれが現れてしまうので、そのようなことがもう無いように期待するばかりである。

6/30のまとめ

寝坊から始まった。

講義が行われる授業が1.2限のみで、両方欠席してしまったので、法学の試験を受けただけで大学が終わった。

 

その後からは勉強しようと思ったが、進まず。

ちょっと持ち込みのための資料を印刷して終わったくらいだ。

 

それなりに授業は真面目に受けてきたつもりなので、焦らなくてもいいのではないかという、自分に根拠のない自信が湧いてきた、コレ、ダメなやつだ。

 

土日でレポート1つと試験の持ち込み資料作成をしなければならない。

今週は休めそうにない。あと今週はまだ1回も1限に出席出来ていない。

明日こそは、しっかり出席しなければ…

今日の総括

4:30から3コマバイトを入れてると、11時から勉強しても昼食その他の時間を抜いたら4時間程度しか勉強出来ないんだな、と。

 

全部中途半端な状態で1日を終えてしまったと思う。

 

今の現状として、母親に20万円を貸している状況にある。

友人とその在り方について話したが、難しい。息子に金を借りようとするなんて、よっぽどのことだと思って看過していたが、それが不思議なようだった。

 

母親の偉大さというのは、凄い。

私が小学校に入学すると同時に両親は離婚、小学1年、2年は母親の元で、小学3年以降は父親の元で育った。

 

両親どちらとも距離を置いてみて、どちらもまともな人間ではないと分かった。

それまでは母親は凄い人で、父親はダメ人間だと思っていた。今考えると、全部母親の印象操作だったと思う。

 

離れていても自分を好きでいてくれる息子という構図を作らされていただけなのではないかと思う。

 

今、父親に申し訳ないと思っている。

母親の印象操作によって、ダメ人間だとずっと思っていたが、私の将来の負担にならないように奨学金を借りずに借金をしている父親。それが賢いかどうかはさておき、そこには愛を感じる。

 

自分が金に困った時だけ連絡を寄こし、それ以外何もしない母親には微塵も愛情を感じない。

障害児指導法 を学んで

今、試験の勉強をしている。

障害者との共生のためには、私たちはもっと個々の障害について学ぶ必要がある、知らないことが、障害者を蔑視したり、避けることに繋がってしまう、というのが私の持論であり、大学で2年と3ヶ月、障害について学んできたが、まだまだ足りない、と思わされた。

 

今の特別支援教育についても知らないし、特に興味のある発達障害に関するあれこれも知らない。

 

継続的に勉強をしてきたつもりで、また、実家の近くに障害者福祉施設が多くあり、中学ではクラスに自閉症の生徒が、高校でもクラスに肢体不自由者がいて、他の人よりも学ぶ機会が多かった自分でこの状態であることを考えると、その他の教員志望の大学生はもっと知識が足りていないのではないか、と思う。

障害科学を専門で行う学部もある私の大学で、学ぶ機会が多いのにこの状態であることを考えると、その他の大学では障害科学について学ぶ機会はより少ないし、そこで教員を育成していたら、通常学級での障害児の支援は間違いだらけになってしまう気がする。

 

皆が障害のあれこれについて深く考えるためにも、私は中学や高校の総合でもいいから、もっと全員が学ぶ機会を作る必要があると思っている。

 

明日は授業がないので、

法学

読書と豊かな人間性

経済地域論

の勉強をしたい。

 

こうやって書いていると、自分が何を専門にしているのか分からなくなってくる。

芥川龍之介『開化の殺人』

 

授業で芥川龍之介の『開化の殺人』について扱った。

内容的には夏目漱石の『こころ』感が全体に流れていて、エゴイズムを主題に添えているのが明らかなように思われた。

 

日本では近代的自我の成立が、外発的に行われた、という話だが、ここでそもそもこうした明治の文豪は何でこんなにもエゴイズムを話題にしたがったのかが気になった。

 

当時の日本の政治が、国民意識が、エゴイズムに過ぎないと批判をしようとしていたのか、それとも他に理由があるのか、もう少し考えていきたい。

 

6/27講義のまとめ、感想

眠すぎて授業で寝まくってしまった。

 

今日は日本文学の授業しかない日だった。

 

2限では近代以降に切り捨てられた古典である『和漢朗詠集』について学んだ。

かな文字で書かれた和歌と中国漢文のみに偏重された古典の学習の違和感。

 

要約すると、かな文字の成立以後も、『土佐日記』にあるように、かな文字は女性のものとして捉えられていて、男性は漢文を書いている時代が長かったのに、それらを扱わないで古典を学んだと言えるのか、という話だった。

 

近代以降のナショナリズム形成の過程で日本漢文が消えていったということがあったが、最近の教科書では、明治期の日本人作家による漢文は掲載されるようになってきている。

それなのにあまり授業で扱われることがないのは、もったいないことのように思われる。

明治の文豪が、ナショナリズム形成下で日本漢文を書いたという行為は、当時の政治へのアンチテーゼとしての要素があるのではないか、とも考えられる。

自分が教員になった際に、日本漢文についても触れていけたら、と思った。

 

3限は『源氏物語』の注釈史

5限は歴史記述の文学史

 

を学んだ。

人が文字を書いて、後世まで残すという行為をする背景には、何らかの強い意図があり、それを読み解いていくことが私たちには求められる、ということだ。

 

文学部です、と言うと、「筆者の気持ちを読み取ってるんですか」と馬鹿にしたように言われることが多いが、実はあまり間違っていないから反論のしようがなくて困っている今日この頃です。

 

明日は観光地理学と障害児指導法の試験があるので、今から勉強をします。

 

TOEIC 2回目の受験

2回目のTOEICを今日は受験してきました。

 

1回目と比べると、何故か眠かった。

それもあって、多分1回目よりももっと酷い点になっていると思う。

ちなみに1回目が、510点( )

英語は昔から文系科目の中では一番苦手だ…。センターも8割しか取れなかったし…。

 

テストが全部終わったら、毎日英語を聞く時間と読む時間を少しでいいから確保していきたい。

 

帰ってからは、金曜日にある司書教諭の資格を取るのに必修の授業の試験勉強をした。

 

読書の良さについてと、読書の良さを知ってもらうために出来る活動について勉強しているが、自分自身が最近読書をしていないことを思い出した。

 

気まぐれでこのブログにも読書記録を載せるかもしれないです。